しあわせのかけら2
2024/08/01
しあわせのかけら2
司馬遼太郎の本で「斟酌」という言葉に、出合った。
「しんしゃく」と読む。
「他人の心中やその考え方などを推しはかること。推察すること」が意味らしい。
「忖度」に似ているが、「忖度」は推察だけの意味で完結する。
「斟酌」は更に、汲取ったうえで、手加減したり、控えたりする事が加わるらしい。
些細な事でも、自分以外の方がいれば、必要な思考や行動は「だれがやるか」という事がでてくる。
洗濯、家事、料理、掃除、草刈り、ゴミ捨て、業務、雑用、買い出し、洗車など些細な日常だ。
身近な存在になれば特に、「だれがやるか」を役割や義務、利害関係、立場などが理由になって、分割作業や役割、立場が決まる。
親密な関係でいえば、親子、夫婦、兄弟、友人、上司部下、顧客などである。
親密になればなるほど、心理的な深さのつながりとは無関係に、その役割や義務、利害関係立場が優先され、「だれがやるか」が決定される。
この「だれがやったか」は、結果的に済んでしまえば、現象は終息する。
しかし、「やらされた感」「役割」などの道義性などの心の問題は残存し、累積する。
「忖度」はできていても、「斟酌」がなければ、親密な関係は脆く、崩壊する。
「斟酌」であれば、「だれがやるか」には恐らくならない。
結局、些細な現象が起きても、「斟酌」であれば、その現象は、参加者全員の共有課題になる。
結果、楽しみであり、楽しくなる。
普段日常の一人での皿洗いは、義務だ。
バーベキューの片づけは、参加者の楽しみとなる。
テーマは共有課題となり、親密な関係性を形成するうえで、何にも代えがたい理由になる。
いわば、些細でつまらない現象を解決するのは、参加者の共有満足感が得られる事になるからだ。
デートや遊び、テーマパークと同じ感覚が得られると思う。
「斟酌」であれば、心理的には「いっしょにやりたい」となると思う。
ゴミ捨てや、草刈りなど、どんな日常の些細な出来事でも、その出来事を互いに共有し、楽しむ事なのではないか。
と思う様になった。
「だれにやらせる」「だれの責任」などは、
しあわせのかけらを拾わない事になる。
だから、かなりもったいない気がする。
恥ずかし話だが、私の夫婦生活は、些細な出来事の解決方法は、だれがやるかは、「義務」「役割」「効率」だった。
楽しむことがなかった。
離婚を経験して、最近、やっと気づいたことだった。