しあわせのかけら1
2024/07/30
しあわせのかけら
今年55歳になった。二人の子は親元を離れ、妻とは離婚し、孤独のさみしさが過ちを気づかせる。
人生は、「幸せ」という砂金を収集する旅なのではないかと思う様になった。
砂金は、日常の川底に紛れ、散在し、繊細で、見えにくく、重さも形が定まっていない。
しあわせのかけらには、一定の規則がある様だ。
喜び、感謝、人をたてる。意見を聞く、熟慮、慈悲、信頼、実績、思いやりなどの言動。
大半は、自分以外の他者と関わって、見つけられるし、得られる。
ふしあわせにも規則性がある。
利己的、自己中心的、暴力的、欺瞞、嫉妬、搾取、略奪、短気、浅墓、不信任、無関心、人の話を聞かないなどの言動。
しあわせもふしあわせも、他者を巻き込む点では、他者が必ずかかわり、社会性を帯びる。
しかし、その結果が違うようだ。
収集は、ありふれた日常にあり、些細な交通標識を意識しないと、見過ごす様だ。
しあわせには与えられるものもあれば、与えるものもある。
会話にも存在する。
反対意見でも、まずはよく意見を聞く。
意見を求められるまで待つ。
意見を求められたら否定語の活用はなるべく避け、できるだけ少ない言葉で、肯定文で構成する。
相手や周囲のメリットや喜びを加えて発言し、間は「ええ」「ふーん」「そうなんだ」で構成する。
こんな単純な事でしあわせは蓄積される事に最近やっと気づいた。
振り返ると、暴力的な会話と無関心、形骸化した夫婦の残存だった。
夫妻の役割や親子の立場、分業が最も重要なのではなく、もっと単純だった事に気づかなかった。
しあわせの中心に居たのに、溢れるばかりのしあわせを元妻には、与えたかった。
本当に、ごめんなさい。