日本の企業と太平洋戦争【その2】

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日本の企業と太平洋戦争【その2】

2021/04/16

 

前回の続きです。

 

日本社会は、「和」という独特な文化がある。

 

「和」は、円滑な社会を運用できます。

他者を思いやる気持ち。一定の距離感で、侵さないという文化。

無用な摩擦を生じさせない文化。

 

海外でも、「和」に内包された「おもてなし」などは、高い評価を受けています。

 

 しかし、反面、独自性や評価制など、鋭利な側面をもつ物に、硬直性が生じる文化でもあります。

その為、鋭利面の具体案、改善策などには「和」では、「危険性あり」と判断され、排斥される傾向があります。

 

海外にあるように、オリジナリティーなどで秀でたものを支援したり、賛同したりし、

「人を認める」文化があると思います。

失敗から、学習するのも、承認である為に「人を認める」事に帰結する分化がが海外には見受けられます。

スリーマイルからの原発事故での、安全弁の見直しなどです。

 

 日本文化では、この部分が著しく欠如していると思います。

選択眼より、ブランド名などで分別し、人柄より、役職で判断する傾向があります。

 

公平な評価制度でさえ、大局的にみれば、嫉妬、嫉み、恨みでその優れた側面さえも削り落とされる。

優秀な人物を評価できない会社や社会は、世界的にみても、宝の持ち腐れになりやすいと思い、もったいないと思うのです。

 

過去の太平洋戦争を読んでいると、現代の邦人会社の場面と同様な場面に、よく遭遇します。

数えきれないくらい、事例があります。

 

「具体的に、こうすれば勝っていた」という方もいるが、やっぱり、知れば知るほど、当時の日本には、敗戦が似合っていたと思います。

アメリカには、決して勝てなかった理由が確実に存在します。

物流量や生産力、エネルギーの枯渇など言うが、本当だろうか。と痛切に思うのです。

あくまでも、仮定ですが、豊富な資源や大量生産の産業が備わっていた日本でも、やっぱり敗戦だった様に思います。

 

当時の大本営も日本社会も、内部的な厳しさが横行し、「人を認める」柔軟さと許容力が、著しく欠如していたと思うのです。

 

 憲兵やら特別警察やらで、言論を弾圧し、「反対意見を聞かない」硬直した、バランス感が欠落した分化があったのは事実です。

新聞社を始め、マスメディアも開戦一色で、その他を排斥し、婦人会も好戦的であり、まじめすぎた。

極端に真面目すぎたと思うのです。

 

ぐれたり、曲がったりした意見を嫌った。

 

やがて国土の8割を焦土と化し、敗戦した。

もの言わない承認者の昭和天皇の玉音放送で幕引きとなった。

 

お飾りだった上役が最後に、幕引きの役割を果たす。

あれほど、現場主義といっていた、陸海軍の参謀たちも、敗戦の処理には何も決断のできない「和」の硬直間が支配した組織でしかなかったと思うのです。

ちなみに、現場主義は、事務レベルですが。最前線の兵士も会社員の、過去も現在も立場は変わらず、決断力のない上層部の支配を受けていると思うのです。

 

「戦争は、絶対ダメだ」と現代人はいう。

 

なぜ、ダメなのか?

なにが、ダメなのか?

 

国体を死守する必要性が大日本帝国には、あったから開戦となった。

 

それは、理由であり、戦争そのものが人殺しだから、ダメだという事かもしれない。

敗戦の末路がみじめすぎるから、ダメなのかも知れない。

 

 しかし、実際戦争を回避できない決断をしなければならない場面が、「未来」に発生したのなら、どうなのだろうか。

 

先の戦争で、戦争に突入した理由を現代人でも、どれだけ方がテーマとして模索しているだろうか?

日本が再び戦争をすれば、また敗戦を繰り返さなければ、ならないのだろうか。

 

また、過去と同じ「和」の横並び文化を引きずり、国土を焦土と化して、みじめさが残留する。

そんな事の為に、敗戦から現代の社会を積み上げてきたのだろうか?

 

「秀でたアイデア」や「秀でた実績」には、「身分や役職」や「社会的地位」は必要としない。

 

「嫉妬感」は、何を守れるのだろうか。

「嫉妬感」は何を生産するのだろうか。

 

「持論を持ち、他の意見を公平に認め、そして選択する」

過去でも現在でも日本社会は、人の功績を認めない事は、同じだ。

 

他者の可能性を信じてあげる事がそんなにできない事なのか。

 

近未来、日本政府が不気味で変則的なスローガンやプロパガンダを言い出したとする。

 他国と開戦をし始めたら、命を張って「NO!」と他国には、抗議し、自国にも、投獄されても、いい切れるだろうか。

 

普段、会社の環境下でも、もの言わない体質になっていても、本当に大事な場面で「NO!」と言えるだろうか。

 

「人を認める」事がそんなに恐怖なら、「和」の文化は見せかけであり、根幹はきれいごとであり、他者を思いやれない文化である。

もう「和」は、根源的には崩壊していると言える。

 

この国の経営者は、実用性のない会議を繰り返して、「会社の向上が見いだせる」と思っているのか。

実際、いびつな「和」文化を継承しているだけだと、思いませんか?

 

現代人一人一人が真面目に、膨大な読書量と過去の教訓から過ちを学び、本質を見つける事が、必要ではないか。

会社では、自分の意見を明確に述べ、承認者は明確な基準を要する時代ではないかと思います。

 

 3.11福島の原子力発電所の事故も、スリーマイル事故や、フランスの事故、チェルノブイリでも、

過去なんどでも、安全性を見なおす機会があった。

 

フランス原子力事故は、日本のプロトタイプだったのに、安全委員会は、安全弁の見直しをしなかった。

「日本は、大丈夫だ」と。

「和の神話」をいつまで、現代日本社会も邦人会社の経営者やチェック機関まで、信じているのだろうか。

 

他者の意見をもみ消すのが、平和的解決策だと、思い込んでいるのなら、ゼロ式戦闘機や戦車の装甲的欠陥と同様の思想があり、

反省も学習もない。

 

機能性は、モチベーションなどのスローガンや「やる気」では解決がつかない。

具体的で的確な問題点の抽出をし、改善策を図り、実行部隊を編成する。

組織的パワーバランス性も、上官の承認などいならい。

 

具体案と結果。あとは、その明確な報酬だけ。

 

「認める力」で、抜かたなら、それだけの実力しかない経営者と自覚し、

その方から、いいヒントを貰って、向上すればいいのではないかと思います。

 

今日はこの辺で。

 

ご拝読ありがとうございました。

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