一級建築士8 奇跡
2024/07/26
奇跡
両親が勤めている設計事務所に来る機会があった。
「佐野所長。奇跡です」
「この子が一級建築士になったなんて」
「奇跡です」
すると師匠が、数秒間の沈黙のあと
「お母さん。奇跡なんてものは、この世にないですよ」
「だって、この子が一級ですよ」
と母が父に視線を合わせて、同意を求める様に言うと、沈黙のあと
「奇跡ではなく、努力なんです」
師匠がタバコに火をつけた。
「奇跡なんか起こる訳ないんです。国家試験なんだから」
師匠がタバコに火をつけた事に安心したのか、父も無言で火をつけた。
「では、佐野所長のおかげです」
と母が言うと
「私は何もしていません」
と師匠は製図台から視線を母に向け、
「何も教えていません」
師匠がたばこをふかしながら、云った。
「千葉君が勝手に努力しただけです」
「奇跡なんて起きないですよ。お母さん」
お気に入りの紙パック「鬼ごろし」をガラスのコップになみなみとそそいで、一期に飲み干した。
スルメイカをくわえて、
「全て、千葉君が勝手にした事です」
薄暗い小さな設計事務所の製図台にブラインドから夕陽が差し込んでいた。